こうかの雑記

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昔の懐かしいこと、ubuntuのこと、その他いろいろ

想い出の愛猫

 先日(2021/06/09)の記事の通り、愛猫が逝ってしまい、片付けをしましたが、物理的に愛猫の痕跡がほとんど無くなって寂しさを感じています。
 今、お骨となって骨壷に収まってしまった愛猫と、遺影を居間に置いています。今しばらく、このような形で愛猫を近くに置いてあげたいと思っています。

 愛猫は19年前、ネットの里親募集で見つけました。前足を揃えてちょこんと座った茶白の子猫の姿が気に入りました。早々に連絡をつけ、わざわざ遠くまで電車に乗って迎えに行きました。
 その頃はまだ猫ブームではなく、猫について詳しく知らない状態でした。なのでこんなに長く共に暮らすことになるとは思っていませんでした。しかし家族の一員として最期まで世話する覚悟をして里親になりました。

 我が家に来たその日から亡くなるまでに大量の写真を撮っていて、少し前から写真の整理を始めました。というのは写真ファイルのバックアップで失敗してファイル日付を失っておりファイル日付で並べ替えて見ることが出来なくなっていました。そこでpythonを使って写真データから撮影日付を取り出してファイル名を書き換えました。(ファイルの作成日は修正できないので)そうしてやっと撮影日順に写真を見ることが出来るようになりました。(pythonスクリプトの詳しい話は機会があればまた載せるかも知れません。)

 撮影日順に写真を家族で見ていると、遠い昔の事に話が弾みます。「こんなことができたんだ」、「やんちゃ坊主だったね」、「あの時は大変だった」、「若い時はこんなに逞しい体していたんだ」……等など。大量の写真がありましたが、撮っておいて良かったと思います。猫を家族として迎えておられる皆さん、是非たくさんの写真を撮ってあげて下さい。写りやアングルが悪い写真も残しておくと、その時の雰囲気などを思い出す役に立つかと思います。

 心配させられたこともありましたが、笑わせてくれた方が多かったと思います。ビビリだけど人懐っこく、猫同士でも喧嘩を仕掛けることは少なく平和主義者に見えました。

 猫って、少しも言うこときいくれなくて何考えているのかわからない存在ですが、そんな中にも人に合わしてくれているのかなと思うことがあります。
 こちらが勝手に思い込んでいるだけかも知れませんが、老齢になって人の顔みてニャオニャオと喋ってくることが増えたように思います。それに合わせて、こちらも喋ってあげるのですが、合わせているのか、合わせてくれているのか?

 我が家の愛猫は、何の芸もなかったけれど、家猫としては良い子だったと思います。最期の時が近づいている時でもトイレでのおしっこすることにこだわってたように思われました。失敗して粗相をしたのは2回だけでした。でも全然しかる気になれませんでした。だって懸命にトイレに向かおうとして力尽き、間に合わなかったという感じだからです。

 最後の最後まで懸命に我慢強く生きようとしている印象を受けました。実のところ逝くまでの間はたとえ苦しくとも我慢するしかないと思うのですが、静かに耐えていたと思います。立派だと思える最期でした。お手本を示してくれたように思えます。

 物理的痕跡はなくなり、習慣として組み込まれた動作や気遣いなども徐々に消えていくのだなと思いますが、愛猫と暮らした19年間の想い出はたくさんの写真で忘れることなく残ると思います。